年譜 星新一
大正15年(1926)
9月6日、東京の本郷(文京区)に生まれる。寅の年である。二黒土星。おとめ座。
昭和20年(1945) 18歳
東京帝国大学農学部農芸化学科へ入学。
小学、中学、高校については『祖父・小金井良精の記』のなかの「私の少年期」の章をごらんください。以下、年齢の数字はその年の誕生日までのものです。
この年の8月、終戦。
校名が東京大学と改称される。
昭和23年(1948) 21歳
東京大学卒業。
昭和25年(1950) 23歳
東京大学大学院(旧制)の前期を修了。研究論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」で、日本農芸化学会誌第280号に掲載。その後も発酵生産学教室に在籍。
昭和26年(1951) 24歳
1月19日に父がロサンゼルスで客死。その経営する製薬会社を引きついだが、不良債権の山、多額の税金未納、社員の老齢化、設備の老朽、経営不振で、会社を他人にまかせるまで、悪夢のような数年間をすごす。
新聞を読むひまもなく、朝鮮半島での戦乱さえ印象に残っていない。
作品になるいい体験なのだろうが、いまだになまなましすぎて、その気にならない。その気になった時には記憶がぼけ、結局、書かれないままになるかもしれない。
昭和32年(1957) 30歳
SF同人誌「宇宙塵」に書いた作品「セキストラ」が江戸川乱歩編集の「宝石」11月号に転載となった。その号には仁木悦子の乱歩賞受賞後の第1作「粘土の犬」ものっている。
つづいて「ボッコちゃん」「おーい でてこーい」なども「宇宙塵」から「宝石」に転載となり、同誌の常連執筆者となる。作家としては、まさに幸運な出発であった。
昭和34年(1959) 32歳
*9月『生命のふしぎ』新潮社。少年むけ科学解説書。
はじめての本である。担当者は石川光男氏。本書は「週刊朝日」の書評欄で好意的にとりあげられた。無署名だが中島健蔵氏と氏と想定でき、いまでも感謝している。現在は絶版だが、学校図書館などに行けば読めるはずである。
昭和35年(1960) 33歳
前年に創刊された「ヒッチコック・マガジン」にも作品がのるようになり「文春漫画読本」からも注文がきた。「週刊朝日」のコラムで、扇谷正造氏が折にふれて声援して下さった。こんなありがたいことはなかった。
9月から私の原案によりNHKテレビで『宇宙船シリカ』の放映がはじまった。竹田人形座のマリオネットによる、 宇宙を舞台にした連続ドラマ。楽しい仕事だった。
この2月「SFマガジン」が創刊され、12月号に私の作品がのった。
真鍋博が講談社さしえ賞を受賞した。
昭和36年(1961) 34歳
*2月『人造美人』新潮社。短編30収録。装丁六浦光雄。やっと作品が本になった。忘れられぬ思い出である。
4月12日、ガガーリン少佐を乗せた初の人間衛星が地球の大気圏外を回った。人びとの宇宙への関心が高まりはじめる。
*8月『ようこそ地球さん』新潮社。短編31収録。装丁、真鍋博。
この2冊は、新潮文庫に入れる時に編集しなおし『人造美人』は『ボッコちゃん』と改題した。
9月27日、芝高輪のプリンスホテルで出版記念回が開かれた。石川光男、宝石社の大坪直行、作家で翻訳家の矢野徹の三氏のおぜんだてのおかげである。
*12月『悪魔のいる天国』中央公論社。短編36収録。すべてに真鍋博のイラストつきという、当時としては珍しい本だった。
昭和37年(1962) 35歳
5月27日、東京の目黒公会堂で同人誌「宇宙塵」の5周年記念、SFマガジン同好会の発足を兼ねた会合がおこなわれた。第1回日本SF大会である。
*7月『ボンボンと悪夢』新潮社。短編36収録。装丁、真鍋博。
*9月、訳書。フレデリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』早川書房。
昭和38年(1963) 36歳
アメリカのSF誌「Magazine of Fantasy and Science Fiction」の6月号に「ボッコちゃん」が英訳掲載された。
*8月『宇宙のあいさつ』早川書房。短編41収録。装丁、内藤正敏。本書はのちに改版に際して『冬きたりなば』と2冊に分けた。
この年の5月ごろ「SFマガジン」編集長の福島正実の努力により、SF作家クラブが作られ、私も入会した。会員は手塚治虫、矢野徹、小松左京、光瀬竜、筒井康隆、眉村卓、真鍋博など14名。初代の事務局長が半村良であった。SF作家もしだいにふえてきた。その席上「記念にタイムカプセルでも埋めるか」という話が出た。それが週刊誌などに報道され、タイムカプセルという名称が世にひろまった。しかし、この件は話だけで、実現させようという気はだれにもなかった。
11月、日米間の衛星中継による初のテレビ放送の日、ケネディ大統領が暗殺された。
昭和39年(1964) 37歳
5月、ニューヨークの世界博覧会の見物を含め、フランス、ベルギー、イタリーと世界を一周した。はじめての海外旅行。
*7月『妖精配給会社』早川書房。短編38収録。装丁、真鍋博。
8月、東京大阪間に新幹線が開通し、SF作家たちも試乗させてもらった。
9月『花とひみつ』。和田誠がやってきて「私家版の絵本を作りたいから、物語を作って下さい」と頼まれ書いたもの。これが彼との出会いである。本業はグラフィック・デザイナーで、タバコのハイライトのデザインをした人と、その少しあとで知り、びっくりした。
10月、東京オリンピック開催。
*12月『夢魔の標的』早川書房。装丁、真鍋博。「SFマガジン」に連載した、はじめてのSF長編。「週刊朝日」の書評欄で中島健蔵氏がとりあげてくださった。
この年、テレビの座談会などの番組によく出演した。いまはぜんぜん出る気にならないが。
昭和41年(1966) 39歳
1月3日、SF作家と漫画家や科学者による1時間の座談会番組が、NHKテレビでは午後2時から、東京12チャンネルでは午後10時から、それぞれ放映された。
*2月『エヌ氏の遊園地』三一書房。短編31収録。装丁、金森馨。
*4月『黒い光』秋田書店。少年むけSFを8編収録。
*7月『気まぐれロボット』理論社。短い童話的SFを31収録。「朝日新聞」日曜板に和田誠のイラストで連載したもの。本の装丁もイラストも同氏。豪華な本で出来た時は感激だったが、あまり売れなかった。
この作品のいくつかは岡本忠成氏によって人形アニメーションとなり「ふしぎなくすり」(原題「盗んだ書類」)は、この年、毎日映画コンクールの大藤賞を受賞した。岡本氏はさらに「花ともぐら」(原題「花とひみつ」)をも映画化し、のちに第22回ベネチア国際映画賞・銀賞、1970東京都教育映画コンクール・金賞など、多くの賞を受ける。原作者としてもうれしいことである。
なお「花とひみつ」そのほか「朝日新聞」以外に発表した数編の童話は、この作品集の『きまぐれロボット』のなかに追加収録した。
短編「景品」がZ・ラヒム氏によりロシア語に訳され、コスモモリスカヤ・プラウダ誌に掲載され、また「冬きたりなば」がソ連のミル出版社の「世界SF選集」の国際短編アンソロジーに収録された。
この年、未来ビジョンなる言葉が流行しはじめた。
昭和42年(1967) 40歳
*3月『人民は弱し 官吏は強し』文芸春秋。長編。前年の『別冊文芸春秋』に発表した作品に加筆したもの。はじめてのノンフィクションである。変った分野を書いたというので、多くの書評でとりあげられたが、本はあまり売れなかった。
*6月『妄想銀行』新潮社。短編32収録。装丁、真鍋博。
短編「タバコ」「願望」「危機」「冬きたりなば」「宇宙の男たち」「景品」がソ連のミル出版社の日本SF短編アンソロジーに収録された。
昭和43年(1968) 41歳
*2月『進化した猿たち』早川書房。「ハヤカワ・ミステリ・マガジン」に連載したもの。かなり前から趣味としてアメリカの一齣漫画を収集していた。編集長の常盤新平氏から「なんでも好きなことを」と言われたので、その分類と紹介と勝手なエッセイとを、漫画つきで約2年にわたって連載したのである。
3月、前年に出版した『妄想銀行』および過去の業績に対して、日本推理作家協会賞をいただいた。短編が受賞したのは、昭和32年に松本清張「顔」以来のことだそうである。
*4月『気まぐれ星のメモ』読売新聞社。これまでのエッセイを集めたもの。装丁、和田誠。
*5月『盗賊会社』日本経済新聞社。短編36収録。「日本経済新聞」の日曜版に「ビジネス・イン・SF」というタイトルで、和田誠のイラストで連載したもの。本の装丁もイラストも同氏。
*7月『マイ国家』新潮社。短編31収録。装丁、前川直。本書は最初、新潮小説文庫のなかの1冊ということで出版された。しかし、やがてその標記を除いた。判の大きさが同じだったので、これまでの新潮社版の短編集と同一の体裁になった。
*10月『午後の恐竜』早川書房。短編21収録。装丁、真鍋博。
世の景気上昇は依然としてつづき、レジャーブーム。また、バラ色の未来論がさかんになる。
昭和44年(1969) 42歳
*3月『ひとにぎりの未来』新潮社。短編40収録。装丁、真鍋博。
7月アポロ11号。人類はじめて月へ着陸。その実況がテレビで放映された。
*7月『世界SF全集第28巻・作品100』早川書房。装丁、勝呂忠。早川書房が全35巻でこのシリーズの刊行をはじめ、第10回配本がこれで、私の巻である。これまでの作品のなかからSFとファンタジー100編を自選したもの。
*12月『宇宙の声』毎日新聞社。かつて小学生むきの雑誌に連載したSF中編を2つ収録。
*12月『殺し屋ですのよ』未来プロモーション。他の短編集収録のものと重複している自選短編集。
ソ連のミル出版社のアンソロジーに短編2つが収録された。
この年、和田誠が文春漫画賞を受賞。
昭和45年(1970) 43歳
*1月『おみそれ社会』講談社。短編11収録。装丁、阿部隆夫。
*4月『ほら男爵 現代の冒険』新潮社。4章より成るユーモア長編。装丁、イラスト、和田誠。
*7月『声の網』講談社。12章より成るSF長編。月刊誌「リクルート」に1年間連載したもの。装丁、真鍋博。
8月、開催中の大阪万国博にあわせ、小松左京の発案と努力で、国際SFシンポジウムがおこなわれた。イギリスのA・C・クラークをはじめ、アメリカ、カナダ、ソ連のSF作家が来日し、日本作家と活発な意見の交換がなされた。なお、万国博はこの年の最大の話題だった。三菱館の企画に、福島正実、真鍋博、矢野徹たちとともに、私も少しだけ参加した。
*11月『だれかさんの悪夢』新潮社。短編47収録。装丁、和田誠。
昭和46年(1971) 44歳
*1月『きまぐれ博物誌』河出書房新社。2冊目のエッセイ集。装丁、和田誠。この作品集第8巻の自選エッセイは本書と『きまぐれ星のメモ』のなかから選んだもの。
*3月『新・進化した猿たち』早川書房。前に出した本が好評だったので、太田博編集長にすすめられ「ハヤカワ・ミステリ・マガジン」に連載したもの。
*4月『なりそこない王子』講談社。短編12収録。装画、イラスト、伊藤勇輔。伊藤さんという特異な作風の画家と知り合い、これから時おりお願いしようと思ったら、若くして病死された。あまりに惜しいので、その遺作のいくつかをこの本に使わせていただいた。
*11月『だれも知らない国で』新潮社。書き下ろし長編。はじめての書き下ろしの小説である。装丁、香月泰男・イラスト、真島節子。この作品集に入れるに際し『ブランコのむこうで』と改題した。
短編「ゆきとどいた生活」がノルウェー語に訳され、ブリングズバード氏編集の世界SFアンソロジーに収録された。
短編「タバコ」がルーマニア語に訳され、同国の雑誌に掲載された。
前年の夏からこの年にかけて、体重を10キロへらすことに成功した。作家になりたてのころの体重に戻したわけである。
昭和47年(1972) 45歳
*3月『さまざまな迷路』新潮社。短編32収録。装丁、小沢良吉。
*4月『にぎやかな部屋』新潮社。書き下ろし戯曲。
*9月『ちぐはぐな部品』角川文庫。短編30収録。『黒い光』のなかの数編と『殺し屋ですのよ』のなかの他の短編集に収録してないものなどより成る。装丁、和田誠。
*10月『おかしな先祖』講談社。短編10収録。装丁、イラスト、和田誠。「小説現代」にユーモアSFとして定期的に書いたもの。
*11月『殿様の日』新潮社。短編7収録。装丁、イラスト、山藤章二。はじめての時代小説集である。
この年、文庫ブームはじまる。『きまぐれロボット』『人民は弱し 官吏は強し』など、文庫になり、やっと売れゆきがよくなる。
バラ色の未来学は万国博を境にかげが薄れ、かわって灰色未来学、さらには終末論が流行しはじめた年でもあった。
昭和48年(1973) 46歳
*5月『城のなかの人』角川書店。時代小説短編5収録。装丁、村上豊。
*10月『かぼちゃの馬車』新潮社。短編28収録。装画、アイズピリ。
この年の秋、いわゆるオイルショック。中東戦争により、アラブ諸国が産出の石油を値上げし、そのため紙をはじめ物価が値上りし、経済界は不況にむかう。なお、2月に小松左京が『日本沈没』を発表し、大きな話題となった。
昭和49年(1974) 47歳
*2月『祖父・小金井良精の記』河出書房新社。編集担当の竜円正憲氏に書くようすすめられ、その気になり、資料調査に約1年、第1行を書いたのが昭和47年の元日。約3年かかったことになる。
*3月『ごたごた気流』講談社。短編17収録。装丁、イラスト、和田誠。
*5月『夜のかくれんぼ』新潮社。短編28収録。装丁、安野光雅。
6月、新潮社より、『星新一の作品集』全18巻、刊行はじまる。
秋、西ドイツで「白い服の男」がドラマ化され放送された。
この年は超能力やオカルトが世の話題となった。
昭和50年(1975) 48歳
*2月『おのぞみの結末』いんなあとりっぷ社。短編11収録。装丁、イラスト、真鍋博。
*9月『明治・父・アメリカ』筑摩書房。書き下ろし長編。亡父の少年期青年期を書いたもので『人民は弱し 官吏は強し』の前編に相当する作品。装丁、真鍋博。
自筆年表はここまで。